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『星廻り』に寄せて

 

 

漂う点、交わらぬ線

人間烏山秀直の曰く言い難い性癖と苦悩の色は何色だろう、とふと考えたことがある。地元長崎は総じて海山青く大地は肥沃、産する野菜も鮮やかな色である。そこで烏山は笑っているのだが、生息地である諫早や大村に感じる独特の抜けと停滞をパレットに加えたあたりから、結局何色と呼ぶべきなのかよくわからなくなるのだった。10年ほど前はじめて会った頃の烏山の作品は、鮮やかなブルーが占める割合が高かったように思う。いま画面はくすみの色を帯びはじめている。それは様々な土地で採取した砂石塵芥を元に顔料を作り使いはじめた時期と重なっているのだろうが、それだけではないだろう。

無数の点でできたパターンが配置され線が浮かびあがる作品らは整然としている。しかし近づいてみると点は思いのほか歪に漂ってい、線は決して交わらない。つまりそこに烏山がいる。構成されたあの整然は、彼の「そうであってほしい世界」なのだろうか。

                                                          齋藤浩太(音楽家、翻訳家)

 

ミクストメディアと作品のキャプションに表記する作家は多い。烏山もタブローにそう記し続けてきたが、その内容を近年大幅に更新しているように見える。

誰も気に留めないような物を収集し、絵具になるよう粉砕して大小さまざまの瓶に詰める。さらに拾い集める姿を映像で記録。展覧会では、瓶詰めの顔料をテーブルに陳列し長編記録映像を上映、メモ書きされた紙を貼りつけた大量のドローイングの奥に集大成となるタブロー。それは一見すると既製の絵具で描かれた数年前の作品とあまり大差がない。しかし、タブローを支えているこれらの複数の異なるメディアたちが、これでもかという物量に任せて押し寄せ「もっとよく見ろ」と声をあげる。メモや瓶に描かれた肉筆、映像に映し出される孤独な姿。もはや作家自身さえも一枚のタブローを支えるメディアとなりつつある。この「星廻り」にわれわれのパフォーマンスも取り込むつもりなのだろう。そう成るか否か。

                                  東亭順(現代美術家、AZP代表、藝術喫茶パロマとヴォルケンホフ運営、愛犬家)

 

烏山先生の作品に歩み寄り間近で見ると、ひとつひとつの点にゆらぎがある。オーガンジーに顔料が染み入ってできたゆらぎ。筆を握る手が震えてできたゆらぎ。顔料が思いのほか流動的に動いた時にできたゆらぎ。作品はその全体を視野に収めると神経質とも言えるような、統制された規則正しさで完成して見えるが、点のひとつひとつを見つめると、それぞれのストーリーが見えてくる。先生の美術予備校に通っていた私は、制作する風景を目のあたりにしていた。初めてその光景を見た際、整然とした作品の見た目とは裏腹に、制作するスペースと日常生活が近い距離であることにギャップを覚えている。生徒が行き交う廊下のそばの部屋で、ある時は真夏に空調もない屋根裏のような部屋で制作していた。それから数年がたった今、先生は繁華街の側溝で、海辺で、範囲を拡張し絵画制作を続けている。私はいつも驚いてばかりだ。

                                                               ​里実咲(芸術家)

 

​私は石の内側を彫っている。内側を彫っていくとやがて石には穴が開き、その瞬間、内と外の関係が一瞬にして変化する。といった言葉は、作品の構造を示す言葉であるが、作品を作品たらしめるものは、貫通した部分のエッジの形状や見え方、作品自身の身体的な重さといった、言語化できない部分である。烏山は、「絵画」への構造的アプローチとして、木枠を円柱にし、エッジをなくすことで画面の終わりを無効化する。また、正方形に作られた支持体の形を作品内に取り込み、フラクタルを作り出すことで絵画における枠の問題を無効化し、絵画の拡張性を効果的に作品化している。しかし、それは構造的な問題であり、作品を作品たらしめているものは、一つ一つの素材の選択であり、隣り合う色の選択、手間と時間が費やされた画面へのこだわりといった、感覚的な判断により選択された数々の行為の蓄積に他ならない。理性的に思考された構造の上に、非言語的感性が形を描き出す。その拮抗の中に一つの美が立ち上がっている。

                                                              石井琢郎(彫刻家)

 

烏山くんの絵の木枠が円柱の木材で作られるようになったとき、とても腑に落ちたことを思い出す。

あの角張った立ち上がりへの愛憎は、絵描きの目の端でいつも燻っている。

丸い縁は揺れを拒まない。むしろ待っている。そこに貼られた透ける表面は、まるで蜘蛛の巣みたいだ。

烏山くんは蜘蛛の巣に掛かりながら、そこを揺らし、繰り返し息を潜めて点を穿つ。

その振動を丸い縁が吸収し終えると、透ける表面は静かに、手前と奥のどこかに位置をとり戻す。

獲物がかかるたびに揺れては静まり、また位置をとり戻す。その繰り返しの中でで、ゆっくりと絵が現れるのだと思う。

私もまた、蜘蛛の巣にかかったようにその揺れを眺める。

ゆっくりと引き伸ばされた時間が、丸い縁から波を打って、光りながら集まってくる。

​                                                              諏訪未知(美術家)

『またたきさえー散りばめられた時間と集積ー』

   

 幼少より画家を志し、17年前に多摩美を卒業した烏山は、画家としての活動を成熟させつつある。

約十年前に故郷である長崎県諫早市に拠点を戻し、

近頃は田園風景が眼前に広がる小高い丘の中腹に建つ古い一軒家をアトリエとして使いはじめたようだ。

そこにはこれまでに集めたという数知れない愛玩具が整然と並べられている。

若い頃から収集癖が強く、美術作品はもとより、

骨董品や人形、最近では廃バイクなど一般的には不要とされる物にまで手を伸ばしはじめている。


 昨年末の“10 Possible or Not Impossible”展で取り組んだ作品がきっかけとなり、

現在では顔料集めというコレクションに奔走しているようだ。

繁華街の道路脇、有明海の干潟、山林や沢などあらゆる場所で顔料となり得る所謂ごみを集めては、

すり鉢ですり潰し、濾して、瓶詰めにしたものへ丁寧に日付や採取場所やコンディションを記入している。

どのような色を発するかという経験からの想像と採取した場所の持つ特性や素材の本質が採取を決定する判断であるという。


 円柱状の4本の棒で矩形の木枠を作り、そこに半透明のオーガンジーを画布として張り、

綿密なドローイングを重ねて、丸や四角などの図形を点として打っていく。という仕事に長らく烏山は取り組んでいる。

円柱状の木枠に巻き込むように張られた画布には、巻き込まれている部分にまで図形が描かれていて、

鑑賞者の立ち位置によってミリ単位で境界を伸縮させることになる。

これは水平線や地平線のまるさからヒントを得ているそうだ。

また半透明の画布は表裏からの仕事を可能にし微妙な揺らぎを生み出す効果と共に、

壁面の状態や照明に大きく影響されることになる。


 矩形の木枠に張られた画布に顔料を定着させるという宿命を背負う絵画。

その形式に可能性を見出し、全ては点から始まると捉える画家のせめぎ合いから生み出された独自の様式に加え、

採取した天然顔料を用いた新作を携えて、アズマテイプロジェクトの3つの異なる空間で6年振りの個展を開催する。

                                                                東亭 順 2020年

ー 「零的」について / 若林 奮 ー


 この作品では、それに使われている素材が別の用途を持つ名称として見えてくる。
例えばビニールシート、細い釘、タッカーの針などである。
それらのものと作者の持つ想像や、想いうかべる風景の間にはなにかしら現在という要素において関連があると考えられるが、
作品を見る私は、その関係を知らなくてよいと云える。

この作品に展開されているのは、それらの素材が持ち、この作者がそこに見い出した新鮮な一面であり、
それらを組合わせによって表現された、広々とした空間なのである。

                                                                                                                                                                                                                                                       若林 奮 2003年

 2026 © Karasuyama Hidetada

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